第一章

 

1.一軒家

 

途中、大船駅での乗り換えのとき買った缶コーヒーがまだ残っているうちに北鎌倉に到着した。改札を出て、大きな伸びをしてからさっそく駅近くの不動産屋を探した。4月が近いせいか、今日はジャケットがいらないくらいの青空が広がっている。まだ昼前なのに観光客の姿も大勢見ることができる。黄色い大きな観光バスが停まっている辺りに、数軒の不動産屋が並んでいるのが見えた。引越しは学生時代のはじめ以来で、不動産屋にはあまり縁の無い生活をしていた和馬にとって、ショーガラスに整列されている物件案内をまじまじと見るのは久しぶりであった。

数軒目の不動産屋に立ち止まって暫くすると、店から少し派手なブラウスを着た婦人が声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。お部屋探しですか?」

鼻の大きさより大きな宝石を指にはめたその50歳前後の婦人に、和馬は軽く会釈をした。

「はい。この辺りで一人暮らしを始めようと思っています。」

婦人は愛想よく店の中へ案内をしてくれた。

 

「最近の鎌倉は、お兄さんみたいな学生さんに人気がありましてね。それにつられるようにワンルームのアパートとかも増えてるんですよ。」

「あ、いえ、僕はこれでも社会人でして。新宿に会社があるんですが、鎌倉は通勤圏内だと思いましてね。」

「あら、それは失礼いたしました。つい学生さんかと思いまして。」

「いいんです。会社でも『若造呼ばわり』されてますから。」

和馬の部署には新人がこの数年間配属されていなく、周りの殆どが上司といった環境であるため、見た目と相まって会社でもいつまでも新人扱いを受けていた。

 

「お一人でお暮らしということでしたら、マンションがいいかしら?」

高野不動産の女将である高野景子(たかの けいこ)は、小さいながらも地元では名の通っているこの看板を女手一つで守っている。夫は30年程前に他界し、一人娘は昨年都会に嫁いだばかりである。

 

「そうですねぇ。家賃が10万くらいの物件を探してるんですが、広めのマンションとか見せていただければ。」

和馬は今住んでいる池袋の狭いマンションより、より広く快適な空間を期待している。都内から1時間も離れた場所に住むのだから、同じくらいの家賃でとてつもなく広い豪邸に住むことができると踏んでいた。

 

「この時期は人気のある便利な場所はすぐに入居が決まってしまうんですよ。昨日も平日だっていうのに春休みということもあって、学生さんが10人ほど見えましてねえ。」

そう言いながらも景子は10件ほどの物件を和馬に見せていた。

 

北鎌倉駅から隣りの鎌倉駅までの物件は、どれも駅からほど近くコンビニや駐車場といった条件も良いものばかりだ。しかしどれも1DKや1Kのものばかりで、和馬が想像していた豪邸とは似つかない。暫くして景子がもう一枚の物件案内を持ってきた。

「こんなのもあるんですが。一軒家の平屋です。築が35年くらいですが、この前リフォームが入りまして内装はとても綺麗ですよ。」

写真の入ったその案内には、丘にそびえる外観と、新築を思わせるような内装が写っていた。それよりも驚いたのがその家賃である。

 

「8万円ですか?光触媒の壁も完備で?」

和馬は「これは!」と心の中でトキメキを覚えながら景子に言った。

「え、ええ、でも平屋の1DKですから写真でご覧になるよりも実際は狭いと思いますよ。しかも、ちょっとした丘の上にありまして、階段を登らなきゃなりませんの。年末まで住まれていた男性も1年くらいでお引越しされましたからねえ。」

冷えてしまったお茶を煎れなおしながら、景子はその一軒家のことを話し出した。

 

「その家、実は亡くした夫の別荘だったんですよ。死んでから知ったんですがね。あの人、絵を描いたり読書をするのが好きだったから、休日とかに海の見えるあの丘に一人で静かな時間を過ごしたかったみたいです。でも今考えてみると、お兄さんくらいの年齢で別荘を建てたなんて、どうもおかしい気がするの。女性でも住まわせてたのかしら。」

目尻に数本の皺(しわ)を作りながら、景子は元気だった頃の夫の姿を思い出していた。

「今年で30年になるわ。当時流行った突然死ってやつでして。若き実業家はあの家とたっぷりの財産を残して旅立っていったわ。」

 

和馬はその家の物件案内に惹かれていた。

「あらごめんなさい。いらないことばっかり喋っちゃって。」

「え、いいですよぉ。海の見える別荘だなんて、とてもいい物件じゃないですかぁ。今日って見ることできます?」

景子は笑顔で答え、ここから歩いて数分であることを伝えた。FAX付きの電話を留守番電話モードにして、二人は店を出た。

つづき