第二章

 

5.丘

 

高野明(たかの あきら)は雨の中一人で小高い丘に立っていた。遠く湘南へ抜けるトンネルが渋滞をしているのが見える。今日は朝から小雨が降っていて、どうせ家探しの客など少ない平日の昼下がり、明は散歩がてらこの丘の簡単な掃除をしようとさっさと昼食をすませ徒歩5分の古き町を楽しんでいた。

 

大学卒業とほぼ同時に父親が他界し、明は高野不動産を継いだ。建築士を目指すことを大学半ばにして諦め、体の弱かった父親の跡を継ぐことを決めていた。しかし、予想よりも遥かに早い時期に父親を亡くすことになった明は、自分の妻となる景子の晴れ姿を父親に見せることができなかった。景子とは幼馴染で、小学校から大学まで同じ学び舎で過ごした。プロポーズは景子からした。明は今でもこのことを悔やんでいるが、どちらが言い出すかなど結婚後の生活には大した問題ではないことが多い。高野不動産の主となった最初の冬に娘の高野愛(たかの あい)が誕生した。明の母親を含む4人の生活は幸せそのもののように見え、近所付き合いのよい景子の評判も悪いものではなかった。

 

梅雨の真っ只中の小さな丘。明はいつものように雨具を着て、草むしりやら近所の子供が残していった駄菓子の残骸などを拾ったりしていた。先月に掃除したものの、階段の整備されたこの空き地は子供たちの格好の遊び場となっていて、しばらくもしない間にビニルのゴミ袋が一つ丸々と肥えていった。額に汗を感じながらふと誰かが階段を駆け上ってくることに気が付いた。振り向くと虫かごに虫取り網といった、いかにもの5歳くらいの男の子が明をじっと見つめていた。

 

「やあ、俊君。今日はもう幼稚園は終わったのかい?」

「うん!いまからバッタを捕まえるの!」

少し呂律の回っていない口調で隣家に住む吉田俊輔(よしだ しゅんすけ)は答えた。虫かごの中にはすでに大きな蝶が窮屈そうに押し込まれていた。

 

「バッタならほら、俊君のすぐ足元にいるぞ。」

「ああ!ちっちゃいのがいっぱいいる!」

小雨が降っていることなどこのくらいの子供には何の障害にもならない。そもそも、この階段を登ってきたときも左手に網、右手に籠といった姿だった。俊輔はバッタを見つけるたびに歓声をあげ、バッタを捕まえるたびにせっせと片付けをしている明に駆け寄った。と、突然、俊輔がものすごい声で泣き出した。どうやら鋭利な草でフクロハギを浅く切ってしまったようだ。

 

「大丈夫だ。こんな傷はツバをつけておけばすぐに治る。俊君は強いな。」

などと明は俊輔をあやした。泣き止む俊輔を見つめながら、明の中で不思議な感情が生まれつつあった。『俺も男の子が欲しい』。3歳になる娘の愛はとても活発で、この子のようにすぐに小さな傷を拵(こしら)えてくる。しかし明には、自分と同性の子供を育ててみたいという衝動が脈づきはじめていた。

 

俊輔を家に送り、夕食を摂りながら明は考えていた。愛が生まれてから、何度となく第二子を迎える行為に励んだ。しかし新しい生命が発生することはなく、景子が二度と子供を生むことができない体であることを医師から告げられた。愛に惜しみない愛情を注ぐことを夫婦で誓い合い、このことで二人の仲に壁ができることはなかった。だが、明にはどうしても男の子孫を諦めることができないでいた。一人っ子である自分の幼少時代に、今の自分を形成していく段階で必要だったであろう栄養素を得ることができなかったことが漠然としたトラウマになっていた。それが何なのか明にはわからない。ただ何かが欠けていることは知っていた。喜びや悲しみが上手く表現できない自分。楽しいときや辛いときに大声で叫ぶことができない自分。己に子供ができたなら、こんな思いをさせたくないと強く思う時間があった。男の子供を持つことが許されない運命を呪いながら、今日の俊輔の笑顔が頭から離れなかった。

つづき