6.地下の王
翌日、明は俊輔の両親に了解をとり、店を妻に任せて娘の愛と3人であの丘に向かった。子供たちは互いに手をつなぎ、鎌倉の細い参道を楽しげに歩いた。後から追いかけるように明が続き、梅雨の中晴れのような快晴の丘に辿りついた。虫取り、追いかけっこ、四葉のクローバー探し、遊具など何もないこの空き地は子供たちにとっては遊園地にも引けを取らないパラダイスであり、悠久とも思えるこのエリシオンはあっという間に夕刻となった。このときすでに、はしゃぐ子供たちを見つめる明には、二人が兄妹としか思えてならなかった。俊輔が欲しい。
明には父親が残した土地と財産がある。母親は明が高野不動産の跡継ぎとなったときに、土地の所有権や財産の一切を明に継がせた。相続税を納めても、北鎌倉では有数の地主に名を連ねている。地位も財産もあるこの凡人が求めたものは、どうしても手に入れることができないたった一人の男の子であった。罪を犯さない限り。
隣りの吉田家は、高野家の家族構成に似ていた。ただし都内から越してきた核家族である。主の吉田径一(よしだ けいいち)は明と同じ歳で、同じく若くして俊輔を育てていた。明とは気が知れた仲で、週末には互いに妻を家において杯を酌み交わしていた。明はこの径一から一人息子の俊輔を奪うことを考えていた。だがどうやれば俊輔を自分の息子にすることができるのであろうか。誘拐したとしてもすぐに足がつく。況してやこの狭い町で世間の言う「犯罪」を誰にも知れずに行うなど不可能に近い。明は毎晩思いに耽(ふけ)った。そして一つの答えに辿りつく。『誰にも知られない場所で俊輔を育てよう』。
梅雨の明け切っていないある日、明は知り合いの棟梁を訪ねていた。
「高野さん。なんでまたあんな場所に家なんか。」
机に広げられた手書きの設計図を前に、山田ススムは明に困惑していた。
「いやね、確かにあの丘は見晴らしがいい。でも社長、あんな海風が吹き上がってくるところに家なんか建てたら、もって20年でっせ。」
職人気質(かたぎ)の山田は呆れた顔つきで明に言った。
「だからこそ、この設計図どおりに棟梁に建てて欲しいんです。」
明が見せていたその一軒家の設計図は、一般的なそれとは少し違っていた。庭やテラスなどは丘の地形を活かした構図になっていて、しかしその家の壁には500mmという印が書かれていた。
「ううん。この強度だったら普通の家の寿命くらいはもつことたぁできますが、でも何でまた」
そう言い切る前に明は設計図をめくった。二枚目の設計図。そこには障子のような絵が書かれていた。B1とう太い字が左隅に書かれていて、その横には「犬の飼育部屋(案)」と記されている。
「新しい商売を始めるんですって。流行のケンネルってやつですよ。」
明はわざと面倒な口調で言った。
「都内にお客さんがいましてね、犬のブリーダーなんです。そのお客さんの依頼なんですよ。この設計書だけでも数百万を頂いてましてね。最優良の顧客ってわけです。」
「なんだぁ、そうなんすね。てっきり変な想像をするところでしたよ。横須賀の米軍さんが絡んでると思いましてね。そうですかぁ。わかりました。」
「ですがね棟梁、この地下の飼育小屋のことは内密にお願いしたいんですよ。」
「内密に・・・ですか?どうしてまた。」
更に呆れ顔で山田は深く腰を下ろした。
「鎌倉の条例のことはご存知ですか?大型犬の繁殖には登録やら何やらで、やたらと規制がかかるらしいんですよ。私もそのことを相手さんに説明したんですが、どうしてもこの鎌倉がいいって言うもんですから、あの丘をお勧めしたわけです。泣き声や下水なんかもこの作りでしたら問題はないと思います。」
「そういう意味での『内密』ってことですな。うちもこんな小さな工務店ですから、この規模でしたら私一人でこさえますわぁ。ただしこの作りですから、手かけから半年はくださいよ。それと、費用もたんまりでっせ。」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
明は立ち上がり深々と頭を下げ、棟梁に見えない角度で笑みをこぼした。
つづく